田村有樹子の経歴とキンコン西野のマネージャーの仕事

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キンコン西野さんの右腕として活躍している田村有樹子さんの経歴と、なぜキンコン西野さんの右腕として働く理由について書いてみようと思います。

田村有樹子さんは、1980年京都府生まれで現在41歳(2021年9月現在)。
小学生の頃は明るく元気な性格だったのですが、クラスのリーダー格の女の子の成績を抜いてしまったことがきっかけで、いじめの対象になったそうです。

酷い内容のいじめを受けたにもかかわらず、中学生の時は人間不信で嫌われるのが怖く、無理をして明るく振りまい友人はいたものの、心から楽しいと思えない中学校生活を送っています。


高校生のころからはテニス部に入部し、部活以外でもスクールに通うほどのめりこんでいたそうです。そのスクールで上達していった田村有樹子さんは、コーチにワンランク上のクラスを作ってほしいと懇願したところ「4人集めてきたら作ってやると」と言われ、他校との練習試合の時にスカウトし4人集めて上のクラスを作ってもらえたそうです。

そのころには、他校の生徒からも声をかけられるようになり『自分が頑張っていれば、人は集まってく』という体験をしたそうです。
その体験が今の原動力の糧になっているかもしれませんね。

大学は、同志社大学へ一浪して入学しました。
大学時代にこのビジュアルでは結婚は無理だと諦め、どうやって生きていこうかと考えたときに、仕事ができる女であれば価値があるのではと考え、ピンと思い浮かんだのがADという仕事だったそうです。

大学卒業後に23歳で上京し、テレビ番組の制作会社へ入社し念願のADとなりました。
最初は、時代物の再現ドラマで低予算で撮影本数を多く撮らなければならず、とても過酷な労働をしていたそうです。

しかし、当時の田村有樹子さんは生意気でガッツがあり、早い段階でいろいろ任されるようになりました。しかし、その番組を担当してから1年半後の田村有樹子さんは、キャパが伴っていないのに「もっとしんどい番組をやらせてください」「ロケを一人でやらせてください」とお願いし、寝ずに無理やり働いていたそうです。

そのことがあって、会社から「労働基準法にひっかかるから、楽な番組にした方がいい」と言われ、担当していた番組を外されたそうです。

田村有樹子さんは、まだやれる。成長できると思って頑張っていたのに、労働基準法や会社の都合で移動させられるのが悔しくてそのまま退社しフリーでADとして活動し始めます。

退職前に先輩方から、「フリーだと仕事取れないから止めとき」って言われていたそうですが、やる気があればなんとかなると思い独立されたそうです。

初めは、全然仕事はなかったそうですが、安くてもいいからジェットバスの説明VTRなど映像とつく仕事は何でもやって何とかやりくりしていたそうです。

24歳の時に、プロデューサーって何の仕事をするのかもわからないけど、肩書をADからプロデューサーに変えたそうです。そのころから芸人さんにかわいがってもらうようになり、特にオリエンタルラジオとの出来事が田村有樹子さんのプロデューサー像を作ったんだそうです。

その出来事とは、オリエンタルラジオさんがTV番組で、うまく笑いが取れず収録を止めるほどのけんかになり、その場はどうにか収まったそうですが、二人は険悪のままです

。その二人に、メールや電話で仲を取り持ってまるく収めたことで、オリエンタルラジオの二人から感謝され、プロデューサーと芸人という関係性ではなく、一人間として付き合おう。そういうプロデューサーになろうと決めたのだそうです。

その後『ガリゲル』という番組で、キンコン西野さん初めて仕事をし仲良くなり、飲みに行ったときに田村有樹子さんの口が悪く態度も出かい様子を見て、「田村さんの感情むき出しのところめっちゃいいよね」って言ってくれたそうです。

初めて人に自分のことを肯定してくれたのがキンコン西野さんだったんですね。
このころから、キンコン西野さんの仕事を個人的に手伝ったりするようになっていました。

その後分けあって、自分で立ち上げた会社を退職しましたが、ガリゲルの仕事は続けていて掛け持ちでスナックのママの仕事を始めます。ママの仕事は、みんなが会いに来てくれて求められている実感があり、生きていると思える楽しい仕事だと思っていたそうです。


しかし、ママの仕事がある為、キンコン西野さんの個人のお仕事の手伝いができなくなり、このままでは、面白い世界から自分が遠くなって行く・・・というジレンマに襲われるようになっていきます。

そんな時、成人の日に『はれのひ』のニュースを見て、キンコン西野さんに何かできることがないか相談したところ、即答でリベンジ成人式をやろうといわれ、その後3週間でリベンジ成人式を開催したそうです。

この成人式の裏で田村有樹子さんは、企画や調整を行いイベントを成功させました。
そして、この時に私はまだ動けるイケる。水商売をやってる場合じゃないと思いママをやめることを決断します。

そして、キンコン西野さんからの誘いで株式会社NISHINOでマネージャーとして働くことになります。

初めに言われた仕事は、オンラインサロンの運営です。キンコン西野さんのではなく田村有樹子のオンラインサロンを作ってと言われ、一スタッフのオンラインサロンって誰が見るの?そして何を書くの?っていう心境だったそうです。

もともとフェイスブックはよく更新していて、家族のことや近況を投稿していたのをそのままやったらいいといわれ、西野さんが言うんだったら何かしらの計算があると思い、キンコン西野さんを信じて探りでオンラインサロンをハジマタのが2019年4月だそうです。

初めの月は、キンコン西野さんの宣伝効果で500人ほどの入会があり、月会費980円で売り上げはキンコン西野さんの個展を手伝ってくれたサロンメンバーへ、お弁当を買ってあげていたそうです。

サロン記事の内容は、そのお弁当をアップしたり、イベントの裏側を投稿、たまにはキンコン西野さんとのLINEのやり取りや田村有樹子の仕事論を載せているそうです。

今では、サロンメンバー2,700人に増えていて、サロンのイベントではZEPPを貸し切って忘年会を行い、演出で花道を作り粉雪を歌った人に花吹雪や湘南の風を歌った人にファイヤーなど、特殊機器を使いサロンメンバーの為にいろいろなイベントをやっているようです。

このイベントはZEPPで歌いたいという夢を持ったサロンメンバーがいて、忘年会でやったら面白いかもと思って始めたそうです。

周りから、人のために頑張っていることをすごいといわれるそうですが、実は自分のためにやっているんだそうです。もともと自分の為に頑張ることができないけど、人にためなら頑張れる。その人にために頑張れた自分が好きになる。という思考だそうです。
特殊な思考ですね。

田村有樹子さんは、自分に興味がなく特に夢もないそうで、夢をもって頑張って応援しその人の為に頑張れば、自分も輝けると思っているそうです。
キンコン西野さんの『映画えんとつ町のプペル』を成功させたくて、スタッフである田村有樹子が広告を出したら面白いと思い、六本木ヒルズメトロハットに1,200万円の巨大広告を出したそうです。

資金は、クラウドファンディングを立ち上げて、オンラインサロンメンバーを中心に支援をもらって調達したそうです。
キンコン西野さんを応援する気持ちでここまでできるってすごいですね。

映画は、コロナ禍の中あの手この手で集客し大ヒットを記録しています。
その成功の陰に、田村有樹子さんやオンラインサロンメンバーの協力があってこそだったんですね。

これからも、キンコン西野さんの敏腕マネージャーとして頑張っていくことを応援しています。

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